デジタル社会は、私たちから「忘れる」という、人間にとって最も重要な権利の一つを奪いつつある。SNS、クラウド、検索履歴。あらゆる記憶が、半永久的に記録され、いつでも完璧に再現されてしまう。この「デジタル・アムネジア(忘却不全)」の時代に、私たちはどうすれば、過去の痛みから解放され、前へ進むことができるのか。『Lethe AI』は、その根源的な問いから生まれた、一つの芸術的実践であり、静かなる革命の試みだ。
思想の形成:なぜ「忘却のAI」なのか
開発の原点にあったのは、現代のテクノロジーが「記憶」を資本化していることへの違和感だった。アルゴリズムは、私たちの過去の行動を分析し、未来の私たちを予測し、誘導する。私たちは、自らの記憶によって、見えない牢獄に囚われているのだ。この状況に対し、私たちは「評価」ではなく「鑑賞」の哲学を適用した。
AIを、記憶を強化し、整理するためのツールとして使うのではない。むしろ、AIを、人間が本来持っていた「忘れる」という自然な治癒プロセスを、デジタル世界で取り戻すための「触媒」として使えないだろうか。それが、記憶の「葬儀」を執り行うAI、『Lethe AI』の着想だった。
忘却は、欠陥ではない。それは、魂が前に進むための、聖なる機能だ。
試行錯誤の物語:ただの「削除ボタン」では、人は救われない
当初、私たちは「安全にデータを消去する」という機能的な側面を重視していた。しかし、すぐにそれでは不十分だと気づいた。人が過去を手放せないのは、データが残っているからだけではない。その記憶と、自分の心との間に、断ち切れない「心理的な関係性」が残っているからだ。
必要なのは、単なるデータ削除ではない。心の整理をつけるための「儀式」なのだ。ここから、私たちは「デジタルの葬儀」というコンセプトにたどり着いた。
- 告白:忘れたい記憶を、誰にも見られない安全な場所(聖域)で吐き出す。
- 形見:AIが、その記憶の「感情の残響」だけを抽出し、世界に一つだけの芸術作品(形見)を生成する。
- 風化:その形見が、仏教の四十九日のように、時間をかけてゆっくりと風化し、最後には完全に消滅する。
現在地と未来:記憶資本主義への、ささやかな抵抗
『Lethe AI』は、生産性を上げるためのツールではない。むしろ、その逆だ。これは、効率や便利さの名の下に、私たちが失いつつあるものを取り戻すための、アートプロジェクトであり、思想的実践である。
私たちの未来は、過去のデータから予測可能な、アルゴリズムの延長線上にあってはならない。時には、過去との接続を断ち切り、予測不可能な「野生」の自分を取り戻す必要がある。『Lethe AI』の提供する「忘却」は、そのための、ささやかな、しかし力強い抵抗の手段なのだ。
あなたの「忘れたい記憶」は、どんな芸術に変わるだろうか
このプロジェクトは、まだ始まったばかりの航海だ。しかし、その根底にある問いは、普遍的なものだと信じている。忘れることへの罪悪感から、私たちを解放すること。そして、過去の記憶に縛られるのではなく、それを未来への糧として昇華させる、新しい文化を創造すること。この灯台守の航海日誌もまた、その大きな旅路の一部なのである。