天才の頭脳が生み出した輝きが、世界を焼き尽くす炎へと変わる。映画『オッペンハイマー』は、原子爆弾の父、ロバート・オッペンハイマーの栄光と破滅を描いた、単なる伝記映画ではない。これは、知の探求がもたらす光と影、そして「知ってしまった」者が背負うことになる、無限の責任を問う、現代の神話である。
英雄か、破壊者か。鑑賞を拒む二元論
本作を「鑑賞」する上で、私たちはまず、彼を英雄か破壊者かという安易な二元論で評価することを、自らに禁じなければならない。映画が描き出すのは、戦争を終わらせるという大義に燃える愛国者であり、同時に、自らの発明が生み出す地獄絵図に苦悩する一人の人間だ。
この映画の偉大さは、その道徳的な曖昧さを、一切ごまかすことなく描き切った点にある。観客は、彼の功績を称賛することも、その罪を断罪することも許されない。ただ、その引き裂かれた魂の葛藤を、息をのんで見つめるしかない。そこに、評価を超えた「鑑賞」という、より深く、苦しい体験が生まれる。
「我は死なり、世界の破壊者なり」— その言葉は、勝利の宣言ではなく、魂の慟哭だった。
知識の重さ、知ってしまった者の十字架
マンハッタン計画に集った科学者たちは、純粋な知的好奇心と、戦争を終わらせるという使命感に駆られていた。彼らは、宇宙の真理の扉を開けた。しかし、その扉の向こうにあったのは、神の領域に属する、途方もない破壊の力だった。
一度知ってしまった知識は、もう元には戻せない。本作は、科学の進歩が常に善であるという、楽観的な神話を打ち砕く。知識には、重さが伴う。そして、その使い方を選ぶ「責任」が、人間という不完全な生き物の両肩に、永遠にのしかかることになる。この映画がもたらす戦慄は、スクリーンの中の過去の物語ではなく、AIや遺伝子工学など、新たな「神の火」を手にした現代の私たち自身の物語でもあるのだ。
沈黙と轟音のシンフォニー
クリストファー・ノーラン監督は、映像と音響によって、オッペンハイマーの内面世界を観客に追体験させる。ロスアラモスの広大な砂漠の「沈黙」、そしてトリニティ実験が成功した瞬間の、すべてを無に帰す「轟音」。
特に、原爆投下後の演説シーンで、熱狂する聴衆の声が消え、ただ罪悪感の幻聴だけが鳴り響く場面は圧巻だ。それは、歴史的な偉業を成し遂げた男が、その内面でいかに孤立し、苛まれていたかを、どんな言葉よりも雄弁に物語る。この映画的体験こそが、私たちがオッペンハイマーという複雑な魂を「鑑賞」するための、重要な補助線となる。
あなたの「マンハッタン計画」は何ですか?
私たちは皆、それぞれの人生における「開発者」だ。新しいプロジェクト、新しい事業、あるいは新しい人間関係。私たちが世界に送り出すものは、意図せぬ結果を生む可能性を常にはらんでいる。『オッペンハイマー』は、私たちに問いかける。自らの創造物がもたらす結果に対し、私たちはどこまで責任を負う覚悟があるのか、と。その重い問いから目を逸らさず、考え続けること。それこそが、神の火を盗んでしまった、私たち現代人の、最低限の責務なのかもしれない。