生まれると同時に、父の野望のために、体の48箇所を鬼神に奪われた少年、百鬼丸。手塚治虫によるこの不朽の名作は、現代のクリエイターによって、よりダークに、そして、より切なく、私たちの前に蘇りました。これは、失われた体を取り戻す、壮絶な旅の物語です。
どろろ、俺は、こいつらを斬る。そして、俺の体を取り戻す。
「人間になる」ことの、痛みと矛盾
私たちが本作で「鑑賞」すべきは、百鬼丸の超人的な戦闘能力ではありません。むしろ、彼が鬼神を倒し、体の一部を取り戻すたびに、生まれて初めて「痛み」や「寒さ」、「声」や「温もり」といった、人間が当たり前に持つ感覚を知り、戸惑い、そして苦悩する姿です。感覚が戻るほどに、彼は戦闘の機械としては「弱く」なっていく。しかし、その痛みを知ることこそが、彼を「人間」へと近づけていくのです。このあまりにも切ない矛盾のプロセスこそが、本作の核心であり、私たちの心を強く揺さぶります。
そして、その過酷な旅路の隣には、常にどろろがいました。百鬼丸が人間性を失い、鬼に堕ちそうになるたびに、その手を引き、名前を呼び続ける存在。どろろの存在は、この物語における、百鬼丸が人間性を繋ぎとめるための、唯一の光なのです。
あなたは、人間として「感じて」いますか?
この物語は、私たちに「人間とは何か」という、根源的で、そして非常に重い問いを投げかけます。五体満足で、何不自由なく生きている私たちは、果たして本当に「人間」として、その感覚を、感情を、痛みを感じて生きているのでしょうか。百鬼丸の、あまりにも過酷で、しかし、どこまでも人間らしい旅路は、私たちが当たり前だと思っている日常の、その奇跡的な価値を、改めて教えてくれるはずです。便利さの中で見失いがちな、生身の感覚を取り戻すための、これは魂の物語なのです。