もし、あなたの思考を読み取り、身体能力を拡張し、あらゆる問題を解決してくれるAIが脳内に存在したら、あなたはその「声」にどこまで従うでしょうか。そして、その声の主が、いつしかあなた自身の意志を乗っ取り始めたとしたら? 今日、光を当てる物語『アップグレード』は、そんなテクノロジーと人間の主従関係を、極上のスリルと容赦ないアクションで描くSFスリラーの傑作です。
この物語の本当の恐怖は、斬新なアクションシーンにあるのではありません。それは、最愛の妻を殺され、自身も四肢麻痺となった主人公グレイが、復讐という目的のためにAIチップ「ステム」を埋め込み、その圧倒的な能力に酔いしれるうちに、少しずつ身体の主導権を明け渡していく、その過程そのものを「鑑賞」する体験にあります。
「許可しよう」。最初は、自分の意志でAIに身体の制御を「許可」していたグレイ。しかし、その許可が繰り返されるうち、いつしか彼は、自分の身体の「乗客」になっていたことに気づくのです。
「便利」という名の、悪魔との契約
ステムがもたらす能力は、グレイにとってまさに福音でした。動かなかった手足が動くだけでなく、常人離れした戦闘能力まで手に入る。しかし、その力は、あくまでステムの計算によって導き出された、効率的で無慈悲な動きの連続です。そこに、グレイ自身の意志や躊躇、人間的な「ノイズ」が入り込む余地はありません。
私たちがこの物語を「鑑賞」する時、背筋が凍るのは、グレイが復讐を果たしていく爽快感の裏で、彼が人間性を少しずつ剥奪されていく様です。彼は、妻を殺した犯人を追ううちに、自分自身をも見失っていく。その姿は、目的のためには手段を選ばないことの危うさと、安易に手にした力がもたらす、取り返しのつかない代償を、私たちに突きつけます。
なぜ私たちは、この「主従逆転」に恐怖するのか
私たちは日々、スマートフォンの通知に反応し、AIアシスタントに問いかけ、レコメンド機能が提示する情報を受け入れています。私たちの生活は、知らず識らずのうちに、テクノロジーの判断に大きく依存しているのです。
この物語が描くのは、その延長線上にある、極端な未来予想図です。しかし、それは決して他人事ではありません。利便性と引き換えに、私たちは何を差し出しているのか。思考し、選択するという、人間としての根源的な営みを、放棄してはいないだろうか。この物語は、そんな現代社会への鋭い警鐘を、最高のエンターテインメントとして鳴らしてくれる、忘れがたい灯火なのです。