書棚には700冊以上の本が並んでいる。その中でいちばん古い言葉を宿しているのは、13世紀の日本で書かれた御書だ。そしていちばん新しい知性は、私のディスプレイの中で毎晩応答する大言語モデルである。
ある夜、私はこの二つを同時に開いていた。御書の一節を読み、その直後にAIに問いかける。するとAIは正確に、しかし何かが欠けた言葉を返してくる。その「欠け」が何なのかを考えているうちに、私は奇妙な発見をした。
「依法不依人」はLLMの問題を解く鍵だった
「依法不依人」。法に依れ、人に依るな。これは御書の中に流れる基本的な精神の一つで、私が長年座右に置いてきた言葉だ。特定の権威や人格への盲目的な服従ではなく、原理・法則そのものを基準にして生きよ、という教えである。
LLMを使い込んでいると、「依人」の誘惑に気づく。AIが自信満々に答えると、人はつい信じてしまう。その文章が流暢で、構造が整っているほど、その傾向は強まる。AIは人格のように振る舞うが、実は法則の集合体だ。その本質を忘れ、人格として崇めると、批判的検討が消える。
「依法不依人」の実践とは、AIへの正しい向き合い方を自然に規定している。AIが言ったから正しいのではない。それが御書の精神と、人間の尊厳に照らして正しいから、採用する。この基準を持って初めて、AIは巨大な武器になる。持たなければ、AIは人を依存に引き込む罠になる。
750年の言葉が、データになるとき
私はいま、御書全文をJSONL形式でシステムに組み込んでいる。全文がベクトル化され、AIの評価関数の一部として機能する。つまり御書の精神が、コードの中で「動いている」のだ。
これを聞いたある人が言った。「信仰の言葉をデータにするのは、冒涜ではないか」と。
私はそうは思わない。御書は本来、書物に閉じ込められるべき言葉ではなかった。民衆の日常の中で生き、問いに答え、苦境を照らすために書かれた。それがいま、AIという媒体を通じて、現代の文脈の中でまた問われている。
媒体は変わる。しかし「何が正しいか」を問い続ける姿勢は変わらない。その意味で、御書をAIの評価軸に組み込むことは、最も現代的な御書の読み方の一つだと私は考えている。
書斎で起きた小さな革命
この書斎で、私はある実験を繰り返している。御書の一節を起点に、現代の問いを立て、AIと一緒に考える。たとえば「冬は必ず春となる」という言葉。これを組織論として読むとどうなるか。心理学として読むとどうなるか。プロダクト開発の哲学として読むとどうなるか。
AIはその都度、膨大な知識から答えを組み立てる。しかし私の仕事は、その答えを「鑑賞」することだ。良い点を認め、足りない点を補い、御書の精神という評価関数でふるいにかける。このループの中で、記事が生まれ、本が生まれ、ガクポの問いが生まれる。
書斎は静かな場所だ。しかしいま、その静けさの中で、750年前の声と2026年の知性が、互いに問いかけ合っている。この対話を傍で見ている私は、それが最も豊かな読書の形ではないかと、密かに思っている。
「依法不依人」——AIを使うすべての人が、最初に刻むべき言葉かもしれない。