「評価から鑑賞へ」という言葉を、私は15年以上使い続けてきた。しかしこの言葉を最初に口にしたとき、自分が何を言っているのかを、完全には理解していなかったと思う。
思想というものは、言葉が先に来て、意味が後からついてくることがある。私の場合もそうだった。「評価ではなく、鑑賞だ」という直感は最初からあった。しかしそれが何を意味するのかを、私は15年かけてゆっくりと掘り下げてきた。
最初の違和感 — 「評価」という言葉への反発
出発点は、翻訳の仕事だった。2003年頃から、教育評価に関する欧米の文献を翻訳し始めた。ルーブリック、形成的評価、総括的評価。当時の日本の教育改革は「評価」をめぐる議論で賑わっていた。
私はその仕事を続けながら、ある奇妙な感覚に囚われていた。評価することによって、何かが死ぬ、という感覚だ。子どもの作文を「B評価」にした瞬間、その作文に宿っていた生き生きとした何かが、スコアに押しつぶされる。そのことが、翻訳する文章の中で繰り返し見えた。
評価は便利だ。序列ができる。比較できる。管理できる。しかしそれと引き換えに、「この作文があなたに何を語りかけたか」という問いが、消える。評価は対象を「数値の問題」に変換することで、鑑賞という行為の余地を閉じてしまう。
「鑑賞」とは、降伏することではない
鑑賞、と言うと、批判しない、甘い、ということだと思われる。それは誤解だ。
美術館で絵を鑑賞するとき、私たちは「この絵は80点だ」とは言わない。しかしそれは、絵の良し悪しを判断していないのではない。「この筆遣いに、画家の葛藤が見える」「この色の選択は、テーマを際立てている」「しかしこの構図には、まだ問いが残る」——そういった、より立体的で、より誠実な観察を行っている。
鑑賞は、評価より難しい。評価は基準があれば誰でもできる。鑑賞は、自分自身が問われる。「あなたはこの作品と、どう出会ったか」——その問いに答える能力は、訓練によって育てるしかない。私が15年をかけてきたのは、その訓練の体系を作ることだった。
LASスケールという道具
2022年、学習鑑賞尺度(LASスケール)の開発に着手した。s01からs19までの19項目で、学習者の「鑑賞的な学び」の状態を可視化する尺度だ。
これは測定ツールだが、評価ツールではない。「あなたの鑑賞力は68点」と言うためのものではなく、「あなたはいま、どのような鑑賞の状態にあるか」を自分自身が知るための鏡である。
OCR処理した2239件のコメントデータを分析すると、学年が上がるにつれて「評価的なコメント」が増え、「鑑賞的なコメント」が減る傾向が見えた。学校教育が、子どもたちの鑑賞力をどこかで削っている。この事実は、私の15年の直感を、データが裏付けてくれた瞬間だった。
次の15年に向けて
鑑賞の思想は、AIと出会うことで次のステージに入った。AIは評価が得意だ。スコアリングし、ランク付けし、最適解を探す。しかし鑑賞は苦手だ。「この作品と私はどう出会ったか」という問いを、AIは自分では立てられない。
だからこそ、AIの時代に鑑賞を問うことは、人間の存在意義を問うことに直結する。AIが評価を担うほど、人間は鑑賞に集中できるはずだ。そして鑑賞を通じて、人はAIが生み出したものの本当の価値を——あるいは限界を——見抜く力を持つ。
15年間の書棚を振り返るとき、私は何を鑑賞してきたのか。それは結局、人間が人間であり続けるための条件だったのかもしれない、と今は思っている。
評価は答えを出す。鑑賞は問いを育てる。——この違いが、すべての起点にある。